サッカーのある人生を 

スペイン・バルセロナのサッカーコーチ・徳永尊信(通称TAKA)のブログ

旅立ちの時

スペイン・バルセロナに来て5年半、遂にこの地を離れることなになった。

2003年3月末、スペイン行きを決心し5年間勤めた矢板中央高校でのコーチを辞め、車を売り、家族、友人、婚約者を日本に残し2003年8月15日に知人もいない、言葉も分からない、全く見知らぬ国に一人飛び立った。
決まっているのはとりあえず日本から申し込んだ3週間のホームステイ先のみ。
最初の1週間、地下鉄の出口からホームステイ先のたった10分の道のりをいつも迷って8月のスペインの強い日差しの下汗だくになって歩いていたのを覚えている。
8月は夏のバケーション中で店が全て閉まっていてバルセロナの町並みが全て同じに見えたのだ。
それからまもなく始まった指導者ライセンス取得のコーチングスクール。いつも机の上にスペイン語の辞書、カタルーニャ語の辞書と2冊置き授業を受ける。最初の頃はスペイン語が全くわからず先生がスペイン語で話しているのか、カタルーニャ語で話しているのかさえも区別がつかなかった。
テストがあるとクラスメイトはさっさと終えて帰ってしまうので自分はいつも一番最後になり、時間終了ぎりぎりまでねばっていたので、早く帰りたい先生がよくこそっと自分にだけに答えやヒントを教えてくれたりしたものだ(笑) 初めて行なった指導の実践授業ではクラスメイトを選手として自分がコーチ役でトレーニングを行い、まだ覚えたて片言のスペイン語でなんとかやったトレーニングにみんな驚いたらしく、終わったあとクラスメイト全員から拍手を受けた。その時からクラスメイトの自分に対する見る目が変わったのをよく覚えている。

2004年1月、受け入れてくれるクラブが決まり、スペインに来て初めてスタンドからではなくグランドに立って芝生を踏んだ感触を今でも忘れない。
そして、当時自分が付いた監督からもらったスペインで初めての給料80ユーロ(約1万円)たったの1万円だったが本当に嬉しかった。
いい思い出だけではない。練習で監督が不在の時自分が一人で練習することになったのだが、監督がいないので選手はダラダラしていていたが自分のスペイン語不足のため怒ることもできず指導者としてなにもできなかった。自分のこれまでのコーチ人生で最悪のトレーニング。練習後一人ロッカールームで流した悔し涙は忘れられない。

そして翌2月スペインにおいて最大のピンチを迎えた。
友人と食事に行って深夜帰宅する途中、当時住んでいた家の前を通るバルメスという大通りの横断歩道を渡ろうとしたところ急に歩くことはおろか立つこともできなくなったのだ。
大通りの横断歩道を渡り始めたところなので仕方なく地面を這って進み信号はとっくに赤になっていたがなんとか渡りきり這ったまま家にようやく辿り着いた。翌日友人に病院に担いで連れて行ってもらい、緊急で診て貰い検査すると、これはひどいで椎間板ヘルニアで直ぐに手術が必要といわれる。2週間完全にベットの上で寝たきりでトイレにもまともに行けなかった。しかし、スペインで手術するのは不安があるし日本に帰って手術すると日数がかかりやっと手に入れた仕事がなくなる不安があった。そこで注射器と針を手に入れ自分で毎日痛み止めの注射を打ってグランドに立つことにした。最初始めて注射打つとき自分の部屋で一人机の前でお尻を出し片手に注射器を持った状態で、本当に打っていいのだろうか・・・?と5分間ぐらいためらったのをよく覚えている(笑) 練習ではまだ言葉もできないし体も動かないので本当に辛かった。注射のかいがあってシーズンオフになるまでなんとか我慢して直ぐに帰国しなんとか院長に頼んで直ぐに手術してもらいなんとかプレシーズン開始までに間に合った。選手には初日の練習で選手には『TAKAがコーンを拾えるようになったぞ!』と言われた(笑)

しかし、そんな多くの苦難を乗り越えクラブでは毎年順調に昇進し、いつのまにか下部組織ではナンバー2と言われる立場になっていた。

その他にも思いではたくさんある、イタリアの国際大会での準優勝、準決勝でASモナコに勝った試合。ユースチームではアウェーでバルサに勝ってスペイン1部リーグの昇格を決めたこと。翌年の1部リーグの残留争いで最終節サラゴサに勝って奇跡の残留を決めたことなどは本当に最高の思い出だ。

何も知らない、誰も知らないところから始まったバルセロナでの生活も5年半が経ち今の自分でやれることは全てやったような気がする。
澄み切った青空が広がるこの大好きなバルセロナの街を離れるのはさびしいが、今が旅立ちの時。
また新たな冒険を求めてこの地を離れる・・・




これまでスペインでの挑戦を応援してくれた皆様大変ありがとうございました。
ここで得た貴重な経験を活かしまた次の舞台でも精一杯がんばりたいと思いますので宜しくお願いします。


人生初めて後を振り返って気付いたこと

自分は常に前を向いて生きていこうとする馬鹿ともいうべき性格なので、これまでの人生で過去を振り返ることは今までしたことはなかった。
しかし、2009年が終わろうとしている今、初めて1年を振り返ってみようと思う。
なぜなら振り返るべき1年だったような気がするから。

自分はこれまで34年生きてきてこの2009年は自分にとって最低の年だった。
いや、というより自分は幸運にもそれまでの33年間ひどい1年というものがない本当に幸せ者だったのだ。

これまでの人生で、たいへん厳しいことは多々あったが、全てが冒険し何かにチャレンジしている過程の中でのことだったから苦しくてもそう感じずにこられたのだろう。

振り返ると2009年に欠けていたのがこの冒険とチャレンジだ。
この二つがこれまでの自分の人生に幸福をもたらしてくれていたのだ。
人生初めて後を振り返って気が付いたこと。

2010年は冒険とチャレンジに満ちた年になりますように!!!



この1年間、当ブログを読んでいただき大変ありがとうございました。
2010年が皆様にとって素晴らしい年になりますよう、心からお祈り申し上げます。


                         2009年12月30日 バルセロナより  
                               徳永尊信

愛情の表現

スペインでは挨拶の仕方が豊富でとても親密である。
男性が女性と挨拶するときは初対面でもドス ベソスと呼ばれるお互いに頬を合わせて左右1回ずつキスをする。
夫婦や恋人同士では人前でも口と口を合わせて挨拶のキスをする。
男同士では相手が目上であろうが誰とでも普通に握手をする。
友人と久しぶりに会ったり、町中などで偶然会ったときなどは男同士でも抱擁する。
両親とは抱擁しお互い頬にキスをする。

日本でスペインと同じように初対面の女性に頬を合わせたらセクハラになってしまう(笑)
妻や恋人以外の女性の肌に触れることは滅多にない。
自分がこちらに来て最初の頃は初対面の女性とドス ベソスするときに少し躊躇していた。相手の女性が可愛い時など少し恥ずかしかった(笑)
今では自分が習慣の違う日本人だから相手の女性が気をつかって握手をしようとしても、自分から頬を合わせドスベソスするようにしている。
なぜなら握手するより、お互いの頬を合わせキスするほうが、お互いの距離感がグッと縮まるからだ。

先月、自分の母、兄、叔母がバルセロナに会いに来てくれた。
バルセロナに住み始めて5年、家族の訪問は初めてだ。
自分がこちらにいるうちに一度は来てもらいたいと思っていたところやっと念願が叶った。
母、兄とは1年半振り、叔母とは約10年振りの再会だ。
束の間の滞在を終え、帰国日に空港に見送りに行った。
わざわざ遠くにいる自分に会いに来てくれた家族一人一人と思いっきり抱擁して、キスをして別れたかったスペイン人がするように・・・
ここスペインでとなると尚更そう思った。 
言葉だけでは伝えづらいものはたくさんある。

このクリスマスから年始にかけて、きっと多くの大切な人との再会が待っているはず。
皆さん、ここは思いっきって相手を抱き締めてみてはいかがでしょうか?
きっと、その瞬間それまでの離れていた時間が一気に埋まるはず。

それでは皆さん FELIZ NAVIDAD ! メリークリスマス!!!

育成年代における年間を通したリーグ戦の実施について

日本サッカー協会が各育成年代での年間を通したリーグ戦の実施を推奨していて、各都道府県でリーグ戦の実施に取り組み始めている。 日本のサッカーがより一層発展するために必要不可欠なものである。
ここスペインにおいても、この年間を通して行なわれるリーグ戦こそ、スペインサッカーの全てであると言っても過言ではない。

これまで日本サッカーは大学連盟、高体連、中体連、クラブユース連盟などの各連盟がそれぞれ独自に競技大会を開催しこれまで日本のサッカーを支えてきた。 特に高体連が主催する冬の全国高校選手権大会はユース年代の試合で5万人以上の観客が集まる歴史と伝統ある世界でも稀な大変注目度が高い大会である。春夏冬の休みの期間には全国各地で高校(ユース)フェスティバルと呼ばれる多数のチームが集まる数多くの大会が行なわれている。
またジュニアの年代では各都道府県の地域単位でトーナメント方式の大会や小規模なリーグ戦を行なうなど独自の活動で日本サッカーの普及、発展に多大なる貢献をしてきた。
大会を開催するには、スポンサーを探し、競技場の確保、日程調整、大会の組み合わせ、審判の割り当て、当日の会場作りなど大会運営の仕事は多岐に渡る。
驚くべきことにこれらの競技大会を独自に運営してきた多くの方々は自分のチームを指導しながら、全てボランティアとして行なってきたことである。子供達のため、日本のサッカーのためにとこれらの競技大会の運営に関わってきた方々の献身には本当に頭が下がる思いである。
日本で現在に至るまでサッカーが普及し、W杯に4大会連続出場できたのも、こういった多くの方々の尽力とその積み重ねがあってこそなし得たものである。

今後さらなる発展を目指し、年間を通したリーグ戦を採用するには既存の各連盟、各地域で行なわれてきた大会をどうするのかが問題になる。リーグ戦を主体に入れ、既存の大会も全て行なうのは日程の重複、過密が発生し不可能である。これまで長年行なわれてきた伝統のある大会をも整理しなくてはならなくなるだろう・・・

これはまぎれもなく日本サッカーの一大改革である。
多くの困難を伴い大変な労力を必要とするものだ。
それには各連盟の協力、地方単位での各都道府県のサッカー協会の連携が欠かせない。
日本サッカー界が一丸となって実施に向けて動き出さなくてはならない。

もし実現し定着させることができれば、その効果はトレセン制度を遥かにしのぎ、16年前のJリーグ創設以上のものになるだろう。
どんなレベルのチーム、選手でも年間を通して多くの公式戦を戦い、クラブチームに所属していようが学校の部活に所属していようが、みんなが競い合いサッカーを楽しめる環境作ること。
世界に通用する選手を育てるには、まず世界に通用する環境を作る。
これこそ日本サッカーの競技力向上、サッカーの更なる普及を促進し、日本のサッカー文化の構築への重要な基盤になると確信している。

無回転シュート

ご報告。
最近、無回転シュートをマスターしました。
3本に1本の割合で意図的に無回転シュートが炸裂するようになりました。
以前GKが無回転のボールを取り損ねて試合に負けたので、意図的に蹴ってGKのトレーニングができないかなと思ったのがきっかけです。

ボールの軌道が急に変化しGKの顔面を直撃した時の快感は最高です(笑)

自分の目指す指導者

近年、書籍、雑誌、インターネット、TVなど通じてサッカーに関する情報量が大変増えて、日本のみならず世界各国の様々な指導理論、指導法、育成法が溢れている。
しかし、指導者はそれらを自分の頭の中で整理し、どれだけ現場で生かすことができているのだろうか?

本来シンプルなスポーツであるはずのサッカーがいつのまにか複雑で難しいものになってしまってはいないだろうか?
自分が言っている理論がだんだん唯の理屈に変わってしまってはいないだろうか?
理屈を聞いているほうはとても退屈だ。
指導者が相手にするのは選手であり理論好きな研究者ではない。


ちょっと個性があって刺激的、そしてサッカーがシンプルなものだと教えられる指導者
それが自分の目指す指導者。

東京、足立区の街クラブ クリアージュFC

今年のadidas CAP 2009 日本クラブユース選手権U‐15に関東代表として無名のクラブが出場した。
そのクラブの名はクリアージュFC。 Jリーグの下部組織やJFLに所属するような企業のクラブでもなく、東京都の足立区中心に活動する街クラブだ。
そのような街クラブがJリーグのプロクラブが数多くひしめく東京都予選、そして関東予選までも勝ち抜き全国大会に出場したのはとてつもない快挙だ。
その偉業を達成したのがジュニアユース(中学生年代)の監督を務める丸茂敦監督(32才)だ。

彼との初めての出会いは今から13年前、地球の反対側にあるブラジルのサンパウロだった。
当時、丸茂氏はブラジルで選手としてプレーしており、自分がクリアージュFCの前身のKSクラブでジュニアユースチームを率いていてブラジル遠征に行ったのがきっかけだった。
そこで知り合い帰国後、丸茂氏が日本でチームを探しているときに当時クラブにあった社会人チームで共にプレーし、自分のチームの指導も一緒に手伝ってもらっていた。
そして一時期水戸ホーリーホックに所属していた際には離れたこともあったが、戻ってきた後も共に2年間チームを指導した。

当時、クラブは本格的に強化を始めたばかり、チームは東京都予選のグループリーグで敗退していたが、クラブの名門の三菱養和やブラジルのクラブでプレーしてきた経験を持つ彼の存在は、当時まだ若く試行錯誤しながらやっていた自分にとって大変貴重なものだった。

その後、自分が矢板中央高校のコーチとして栃木に行くことになり、丸茂氏がチームを引き継いでくれたのだ。
その年1999年にKSクラブは足立区内にある他の3つのジュニア(小学生年代)クラブと合併し基盤を広げクリアージュFCと名を改めて新たなスタートを切った。
その頃、グランドでの指導だけでなく、毎日深夜まで事務所に残って働き、時には事務所に泊まってまで仕事していたのをよく覚えている。おそらくそれは今でも変わらないだろう。

丸茂氏を始めクラブは幼児からの一貫指導を行なうなど地道な努力を重ねジュニアユースは都大会のベスト8、ジュニアチームのクリアージュFCロッキーがさわやか杯(東京都大会)で優勝するなど徐々に結果を出し始める。

そして、丸茂氏がチームを率いて10年経った2009年、ついにクリアージュFCは見事全国大会出場を成し遂げた。


クリアージュ
日本クラブユース選手権のHPのチーム紹介写真。 全出場チームなかで土のグランドでの写真はクリアージュのみ! その謙虚さとこの選手達の笑顔が勝利の秘訣!?


これはクリアージュFCと同じような多くの街クラブに夢と希望を与える結果になったのではないか。
それになにより長い年月をかけた地道な努力の積み重ねは必ず報われることの証明でもある。

全国大会を経験し、街クラブ、クリアージュFCは今後もさらに発展し続けていくだろう。
その原動力となるのは今も昔と変わらない彼のサッカーに対する情熱だ。

名実況解説者アンドレース・モンテス(Andres Montes)

先日、スペインのLa SextaやCanal +という民放テレビ局でサッカー、バスケットの試合の実況解説を行なっていたAndres Montes(アンドレース・モンテス、享年53歳)が亡くなった。

彼の中継はすごく独特でとても個性的だった。
例えばバルサ戦の中継ではプジョルがボールに寄せると『サメ(tiburon)、サメ、サメが来たー!』と連呼し、凄まじいスピードでサイドを駆け上がるダニ・アルベスには『モトGP(モーター・グランプリ)がサイドを駆け上がる!』と叫び試合をより一層盛り上げてくれた。

また、連続して華麗にパスが繋がったり、ゴールが決まると彼が創り出した言葉Tiki-Taka(ティキ タカ)を連発し(日本語のイメージだと『ピンパン』)、この言葉はたちまちブームになった。
自分はこちらでTAKA(タカ)と呼ばれているので初対面の人に会うと必ず『Tiki-TakaのTAKAね。』といつも笑いながらすぐに自分の名前を覚えくれたものだ。


そしていつもスパープレーがあった時や、感動的な試合の後の閉めの言葉

LA VIDA PUEDE SER MARAVILLOSA.
(人生は素晴らしいものになりうる。)

は彼の数ある名文句の中で自分の一番好きな言葉だ。

テレビを通じて勇気と希望を与えてくれた彼のご冥福を心からお祈りいたします。
ありがとう、アンドレース!



La sextaのニュース番組で放送されたアンドレース・モンテスのメモリアル

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